夜.
ランニングするコースの中に,横浜市中央卸市場がある.
路肩には,トラックが何台も縦列しており,熱が冷めていく街とは打って変わって,これから動き出すといった感じ.
キリっと冷えた寒い夜に魚のにおいが微かに鼻腔に届く.
前方の歩行者信号は青.
右手の植え込みから猫が一匹,歩行者信号をちぼちぼ歩いている.
後方から走ってくる僕とすれ違いざまに目があった.猫はシャムのような毛並みで,灰色の毛が好き放題に伸びている.
ははぁ.魚目当てなのか.彼/彼女らにとっては,今一番が活動時なのかもしれない.
こんなことを思ってみる.
猫にとって,卸市場やトラックは意味のあるものに映るに違いないだろう.
それはどれも“魚”に関連しているからね.
だけど,信号機はどうだろうか.青信号だろうが赤信号だろうが,彼/彼女らにとって,それらは何の意味もなしていないのではないだろうか.ただ直立した棒が,規則的に色を変えるといったオブジェにしか見えないだろう.控え目に言っても,それらが彼/彼女らを楽しませるものだとは思わない.
家はどうだろうか.
猫にとって,人間が住む家はどのように映るのだろうか.
このときであった猫はもしかしたら人間に家で飼われており,時たま,そう卸市場が起き始めた時に,外に出て腹を満たしたら,また家に戻る.そんな生活を送っているとしたら,家には少なくとも意味はあるかもしれない.それは人間のもつ家に対する考えとそれほど違わないのかな.
自転車や車は猫にとってどうだろうか.
猫にとって,はじめそれらのものは意味のないものであるかもしれない.しかし,突如として意味のあるもの,あるいは無理にこじ開けられた関係というものによって衝突する.それは字義通り衝突してしまい.猫にとって“恐怖”の対象として意味のあるものに変わるかもしれない.
これまで意味のなかったものが,次の瞬間には意味のあるものに変わることもある.
それからみなとみらいを走っていると,なんだかとても不思議な感覚にとらわれていく.
すっかり眠ってしまった街のビルが異様に見えてくるからだ.いろんなビルがある.気持ちの良いくらいの縦じまビル,茹で卵を切ったようなくし型のビル,何のための車輪なのかと思わせる観覧車.
それらのものが夜になると異様なものに見えてくる.何のために存在しているのか,その存在が疑わしくなってくる.
猫とトラック,猫と家,猫と卸市場のように,それらが僕にとって何の影響を与え,あるいは受けているのか.僕とそれらの間に何ら関係性を見出せない.
意味のあるものと意味の無いもの.それでも世の中には,どちらかが付帯したオブジェが存在する.
そして,「猫と車」のように,こちらの意図とは関係なく,地球に重力があるように抗えない力学として,突如として関係が生まれ,意味があらわれてくることがしばしば人生にはあるのではなかろうか.そして,それは今夜に関して言えば,たまたま出会った卸市場の猫が僕に与えた思いがけない意味のようでもある.よかれ悪かれ,僕の人生のほとんどがそうであるような気がしてきた.
ケロ
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